石垣島の戦争遺跡|市指定史跡・名蔵白水の避難跡、特攻と石垣島事件の碑、入れなくなった壕

この記事の島石垣島のページ →
飛行機の窓から見た石垣島周辺のサンゴ礁の海

本ページはプロモーション(アフィリエイト広告)を含みます。

八重山では沖縄本島のような地上戦はありませんでしたが、石垣島には3つの飛行場があり、空襲と艦砲射撃を受けました。石垣市教育委員会によると、石垣島で確認されている戦争遺跡は70か所。ただ「戦後81年を経て風化や崩落、消失が進んでいます」とも書かれていて、行けば見られる場所ばかりではありません。この記事では、石垣市・総務省の資料と地元紙の報道をもとに、旅行者が訪ねられる戦跡と碑、立ち入れない場所、見学のときに守ることをまとめます。

早見表|石垣島のおもな戦跡と碑

場所 何があるか 見学
名蔵白水の戦争遺跡群 住民の避難地の跡。井戸跡・かまど跡・壕など(市指定史跡) 山の中。整備はされていない
川平湾の特攻艇秘匿壕群 特攻艇を隠した壕 柵があり、内部は立ち入り禁止
フルスト原の無蓋掩体壕跡 屋根のない掩体壕の跡。県内で現存が確認されている唯一のもの 戦跡は私有地を含む場合があり(市の注意書き)、所有者の許可が必要
伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑 石垣島から出撃した特攻隊の碑 南ぬ浜町公園
米軍飛行士慰霊碑 石垣島事件で殺害された米兵3人の慰霊碑 石垣市新川
八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑 強制避難でマラリアに倒れた人々の碑 バンナ公園

石垣市は、戦跡めぐりの場所について「私有地が含まれている場合があります。訪れる際は所有者等の許可を取ってから立ち入るようお願いします」としています。南ぬ浜町公園・新川・バンナ公園の碑は誰でも訪ねられますが、壕や掩体壕の跡は自分の判断で入っていい場所ではないと考えてください。

石垣島の戦争|飛行場と空襲

総務省がまとめた「石垣市における戦災の状況」によると、1943年(昭和18年)末に平喜名飛行場へ海軍の部隊が入り、平得と白保で新しい飛行場づくりが始まりました。学徒も住民も工事に駆り出されています。1944年(昭和19年)8月23日には独立混成第45旅団が移ってきて、県立八重山農学校の校舎に司令部を置きました。

米軍機による初めての空襲は1944年10月12日。白保飛行場の補修を受け持ったのは、20〜45歳の住民の男性を召集した第506特設警備工兵隊で、同じ資料は「台湾や鹿児島県の知覧から飛び立った特攻機の中継地点として維持していく」ことが任務だったと書いています。1945年5月には艦砲射撃も加わり、6月には住民に山地への避難が命じられ、そこでマラリアが広がりました。

名蔵白水の戦争遺跡群|住民が避難した山の中

於茂登岳の西の山中にある白水は、石垣市の大川と登野城の住民が避難した場所です。石垣市教育委員会のリーフレットは、そこを「木々に覆われ、暗く、湿気の多い場所だった」と伝えています。井戸跡、かまど跡、壕、炭焼窯跡、鍋や食器が散らばる場所が残り、2009年(平成21年)3月30日に石垣市の史跡になりました。八重山支庁がつくった壕もあり、そのひとつには石垣・大浜・白保・竹富・小浜の国民学校の御真影(天皇・皇后の写真)が移されています。

見学について、同じリーフレットは次のように書いています。

  • 「うっそうとした山の中にあります」「史跡整備等は行っておりません」
  • 小道はあるが、基本は木々の間を抜ける山道。川を何か所か越えるので、濡れてもよい靴を用意する
  • 虫よけのため、長袖・長ズボンで歩く
  • 残っている遺構や遺物は「勝手に持ち出したり、物を動かしたりしないよう、ご協力をお願いいたします」

2026年6月の戦跡めぐりでは、現地の鉄鍋が「経年劣化による腐食・破片化が著しく進行しています」と報告されました。問い合わせ先は石垣市教育委員会の文化財・市史編集課(0980-83-7269)です。

崩れや柵で入れない壕と、整備が追いつかない遺跡

石垣市が2026年6月14日に行った戦跡めぐりの報告には、遺跡の今の状態が書かれています。

  • 川平湾の特攻艇秘匿壕群:壕の中の崩落が年々ひどくなり、柵が設けられて内部は立ち入り禁止
  • ヘーギナー壕・三連結壕:密林の先にある2つの壕のうち、ヘーギナー壕は壕口が崩れていて進入が難しい。三連結壕は岩盤に亀裂があり、参加者はヘルメットをかぶり、コンクリートで造られた部分だけを見学した
  • フルスト原の無蓋掩体壕跡:沖縄県内で唯一現存が確認されている屋根のない掩体壕(飛行機を守る囲い)の跡。約15年ぶりに木を切って整備し、「コ」の字の形と土盛・石積を確かめた

川平湾は観光で訪れる人が多い場所ですが、壕の中には入れません。市はこの戦跡めぐりの配布資料をページに載せていて、「個人・団体で戦跡めぐりを行う際の参考資料としてご利用下さい」としています。歩いて回る前に目を通しておくと、場所ごとの由来がわかります。

市街地から行ける碑|特攻と石垣島事件

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑(南ぬ浜町公園)

1945年3月26日、伊舎堂用久中佐が率いる陸軍の誠第十七飛行隊が石垣島から出撃し、慶良間諸島沖の米艦隊に特攻しました。八重山日報は、石垣島から特攻した隊員を計31人とし、碑の台座には副隊長の石垣仁氏を含む計32人の名前が刻まれていると伝えています。特攻隊戦没者慰霊顕彰会の記録では、碑の建立は2013年(平成25年)8月15日、例祭は毎年3月26日です。ただ、慰霊祭を開いてきた実行委員会は、特攻から80年の2025年の慰霊祭を最後に解散し、その後は他の団体に引き継ぐ意向と報じられています。

米軍飛行士慰霊碑(新川)

1945年4月15日、白保沖に墜落した米軍機の乗員3人が捕らえられ、バンナ岳のふもとで殺害されました。これが「石垣島事件」です。琉球新報によると、戦後に46人が戦犯として裁かれ、41人に死刑判決、7人の刑が執行されています。慰霊碑は2001年8月15日に除幕され、八重山毎日新聞によると、それ以来毎年、碑の前で慰霊式が開かれています(2026年は事件の日にあたる4月15日に開かれ、約80人が参列)。

八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑(バンナ公園)

山地への強制避難と、波照間島から西表島への強制疎開でマラリアに倒れた人々の碑です。歴史と八重山平和祈念館の訪ね方は八重山の戦争マラリアとはにまとめています。

竹富島に駐屯した大石隊

竹富島 高台から見た赤瓦屋根の集落と、左手前のなごみの塔
竹富島の集落。戦時中は大石隊が島に駐屯していた

竹富町の資料(総務省「竹富町における戦災の状況」)には、「竹富島には大石隊、小浜島には旅井隊、引野隊が駐屯し」とあります。沖縄タイムスによると大石隊は独立歩兵301大隊で、2015年6月23日には島の寺院・喜宝院で隊の犠牲者を弔う慰霊祭が開かれました。隊長は住民とよい関係を築き、隊員に高知県出身者が多かったことから、戦後も「高知竹富会」として交流が続いたと伝えられています。

竹富島の戦跡については、町や県の公開ページで場所と見学のしかたまで案内したものは見つかりませんでした。島の中の碑や跡を探して集落や御嶽に入りこむのは避け、知りたいことは喜宝院や観光協会に尋ねるのが確かです。

戦跡を回るときの組み立て

南ぬ浜町公園の顕彰碑、新川の米軍飛行士慰霊碑、バンナ公園の慰霊之碑は、市街地から車で回れる範囲にあります。名蔵白水は山の中なので、レンタカーで行き、半日は空けておくと、川を渡る山道も焦らずに歩けます。特攻の顕彰碑では3月26日に例祭、米軍飛行士慰霊碑では事件の日の4月15日前後に慰霊式が開かれてきました。式の日に行き合わせたら、式の妨げにならないよう離れたところから見守り、参列者にカメラを向けるのは控えましょう。

戦跡を旅程に入れるなら、市街地に宿を取っておくと、朝の涼しいうちに山へ向かい、午後に市街地の碑を訪ねる順番で動けます。八重山平和祈念館の訪ね方は、上の戦争マラリアの記事で案内しています。

石垣島の宿・航空券を探すTrip.comでホテル・航空券をまとめて比較・予約
Trip.comで見る

まとめ

石垣島には70か所の戦争遺跡が確認されていますが、崩落や風化が進み、川平湾の特攻艇秘匿壕群のように中へ入れない場所もあります。市の史跡になっている名蔵白水の戦争遺跡群は、整備されていない山道を歩くので、濡れてもよい靴と長袖で行き、遺物には手を触れないこと。市街地から行ける特攻の顕彰碑、石垣島事件の慰霊碑、戦争マラリアの慰霊之碑とあわせて回ると、島の人々が戦争の中でどう暮らし、何を失ったのかをたどれます。

参考・出典(公式サイト)

※ 情報は変更される場合があります。遺跡の状態や立ち入りの可否は石垣市教育委員会 文化財・市史編集課でご確認ください。(最終確認:2026年10月)

← 八重山たびトップへ モデルコースの記事一覧 →
姉妹サイト:島めぐり|伊豆諸島(東京の島々)の旅メディア