八重山の戦争マラリアとは|波照間島の住民が西表島へ移された歴史と、八重山平和祈念館・忘勿石の訪ね方

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西表島のマングローブ林と緑の山並み

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八重山では、沖縄本島のような地上戦はありませんでした。それでも、太平洋戦争の終わりに八重山全体で3,647人の住民が亡くなっています。原因は銃弾ではなくマラリアでした。軍の命令で、マラリアがはびこる山あいや西表島へ移された住民が次々に感染したためで、この出来事は「戦争マラリア」と呼ばれています。この記事では、何が起きたのかを沖縄県と総務省の資料、琉球新報の報道をもとにまとめ、石垣島の八重山平和祈念館や西表島の忘勿石(わすれないし)など、旅行中に訪ねられる場所を紹介します。

早見表|八重山の戦争マラリア

項目 内容
時期 1945年(昭和20年)。6月の避難命令から、敗戦直後の9月までに犠牲が集中(波照間島は4月から)
何が起きたか 軍の命令で住民がマラリアの有病地へ避難させられ、感染が広がった
罹患者・死者 八重山全体で罹患者1万6,864人、死者3,647人(総務省の竹富町・石垣市のページ)
波照間島 住民は1945年4月に西表島の南風見と由布島へ。疎開先と帰島後を合わせて552人が亡くなり、当時の人口の約3分の1にあたる(琉球新報)
石垣島で訪ねる 八重山平和祈念館(石垣市新栄町)、八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑(バンナ公園)
西表島で訪ねる 忘勿石之碑(南風見田の浜)

戦争マラリアとは

八重山の石垣島には3つの飛行場がありました。総務省の石垣市のページによると、1944年当時の八重山の人口は約3万3千人で、そこへ約8千人の軍人が移ってきて、島の暮らしは食料不足に苦しむようになります。石垣島は1944年10月に初めて空襲を受け、1945年に入ると空襲が激しくなり、5月には艦砲射撃も加わりました。

同年6月1日、独立混成第45旅団長が石垣・大浜の町村長を呼び出し、「官公庁は5日までに、一般住民は10日までに避難を完了するように」と伝えました。避難先は、マラリアの巣窟として恐れられていた山あいの有病地でした。7月23日に戦闘に備える態勢が解かれて家に戻っても、マラリアはおさまらず、多くの人が亡くなります。石垣市のページは、強制避難から敗戦直後の9月までに八重山群島で3,647人が犠牲になったとしています。

当時の竹富村の島々は西表島へ

いまの竹富町にあたる島々のうち、波照間島・黒島・鳩間島・新城島・竹富島では、住民が島ごとに西表島の指定された場所へ移されました(小浜島や西表島の祖納などは、集落近くの洞窟や畑小屋に避難しています)。総務省の竹富町のページによると、行き先は次のとおりです。

元の島 移された先
波照間島 西表島の南風見、由布島
黒島 西表島の南風見、古見、カサ崎、由布島
鳩間島 西表島の上原、船浦、伊武田
新城島 西表島の大原
竹富島 西表島の慶田城山(玻座間村)、ホネラ(仲筋村)

避難先では、かやぶきの簡単な小屋に1世帯2畳ほどで4、5人が暮らしました。同じページは「指定された避難地はマラリアの有病地だったのである」と書いています。竹富町の全戦没者1,317人のうち963人がマラリアによる死者で、割合は約73%。とくに波照間島の割合が高く、それは強制疎開によるものだとしています。

両岸に広がる仲間川のマングローブ林(西表島)
西表島・仲間川のマングローブ林(大原港の近く)

波照間島と忘勿石

波照間島の住民は、石垣島より早い1945年4月に、軍の命令で海を渡って西表島の南風見などへ移されました(総務省の忘勿石之碑のページにある碑文)。琉球新報によると、現地で80人以上が亡くなり、島に戻ってからも持ち込まれたマラリアで死者が相次ぎました。疎開先と帰島後を合わせて552人、当時の人口の約3分の1が犠牲になっています。

疎開先の南風見田の浜には、波照間国民学校の識名信升校長が岩に刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が残っています。この石のそばに1992年8月15日、西表島に住む波照間出身の人たちなどが「忘勿石之碑」を建て、毎年8月15日に慰霊祭が開かれています。

碑は2019年9月の台風18号で犠牲者の名前を刻んだ銘板が壊れ、2020年7月に地元で期成会ができて寄付を集め、2022年8月に修復が終わりました(琉球新報)。修復を呼びかけた記者会見の動画(YouTube)では、碑の修復にあわせて、碑への入口に案内板を置くことや、当時の避難場所を示す表示を立てる計画も語られていました。

波照間島・高那崎に立つ日本最南端の碑
波照間島の高那崎。日本最南端の碑が立つ一帯には、竹富町が1995年に建てた「日本最南端平和の碑」もある

戦後とマラリアの根絶

島に戻っても、マラリアと食料不足は続きました。総務省の竹富町のページによると、1945年12月26日に米国海軍の救援物資が八重山に届き、マラリアの治療薬アテブリンや米・塩・缶詰が各島に配られます。八重山平和祈念館の説明では、1957年から行われた「ウィラープラン」による対策が効果を上げ、1961年を最後に患者は出ていません。

戦後の開拓でも、マラリアは土地の歩みを左右しました。西表島北部の上原や船浦は、戦前からマラリアのため廃村寸前でしたが、戦後に再び移住者が定住を始めます。東部の由布島について、同じ総務省のページは「戦前からマラリアがなく」と書いています(戦時中は波照間島や黒島の住民の避難先にもなりました)。戦後は竹富島の人たちなどがここを足がかりに、西表島で田んぼを作りました。由布島の成り立ちは由布島の記事に書いています。

旅行中に訪ねられる場所

八重山平和祈念館(石垣島)

戦争マラリアを伝える沖縄県の施設で、沖縄県平和祈念資料館の分館として1999年5月に開館しました。展示は「沖縄戦と八重山」「戦争マラリアの悲劇」「マラリア根絶に向かって」など6つのテーマで構成されています。

項目 内容
所在地 沖縄県石垣市新栄町79-3
開館時間 9:00〜17:00(展示室への入室受付は16:30まで)
休館日 毎週月曜(祝日・振替休日の場合は開館)、12月29日〜1月3日
観覧料 大人100円、小学生〜大学生50円(20名以上は団体料金)
電話 0980-88-6161

月曜は原則休館のため、日程を調整してください。屋内の展示施設なので、天候を問わず見学できます。

八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑(バンナ公園)

石垣市のバンナ公園(南口の石碑の森)にある、沖縄県が1997年3月29日に建てた碑です。総務省の追悼施設のページによると、碑の中には、遺族が犠牲者の名前を小石に書いて納めています。

忘勿石之碑(西表島)

大原港のある島の南東部、南風見田の浜にあります。西表島へは石垣港から大原港行きの船で渡ります。浜は集落から離れているので、島での移動手段と帰りの船の時刻を先に決めてから向かってください。

石垣島に泊まって平和祈念館とバンナ公園を回り、翌日に西表島へ渡る日程なら、無理なく両方を訪ねられます。

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まとめ

戦争マラリアは、1945年に軍の命令でマラリアの有病地へ移された八重山の住民が次々に感染し、3,647人が亡くなった出来事です。波照間島では住民の約3分の1にあたる552人が亡くなり、疎開先の西表島・南風見田の浜には校長が刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が残っています。石垣島の八重山平和祈念館(月曜は原則休館・大人100円)とバンナ公園の慰霊之碑は、石垣島での滞在中に訪ねられます。

参考・出典(公式サイト)

※ 情報は変更される場合があります。施設の開館時間・休館日・観覧料は八重山平和祈念館の公式ページでご確認ください。(最終確認:2026年10月)

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